その日の港は、何もかもが違っていた。
昼過ぎから大勢の男たちがまるで蟻のように、列になって波打ち際に向かっていく。
その活気は、明け方の豊かな漁港の賑わいを遥かに超えている。
しかし男たちは皆静かだ。大声を上げたり、陽気な声を上げる者は誰一人としていない。
黙ったまま漁港の脇に続く長い浜辺のある一点をめがけて男たちはただ進んでいくのだ。
もくもくと進む男たちの後ろ姿が、異様さを際立たせる。
『お父さんの言うとおりだ。』
今まで観たこともない大物、そして何かとんでもない事が起こるに違いない。
初範はそう感じずにはいられなかった。
『今日は道場は休んで、今からすぐ港に行きなさい。大人の人と一緒に仕事をして来なさい。』
学校の帰りに、父の営むスーパーに立ち寄ると、初範を見つけるなり、父が言った。
本当は、今月町で行われる夏祭りのために、仲間と揃いのTシャツを着たくて、
先日入荷したばかりの服を父にねだるつもりだった。
道内きってのしゃれたスーパーマーケットは、札幌ですら手に入らないようなものが店先を飾る。
アメリカ的な嗜好品、色やデザインはどれも洗練されていて、ユースのものでも決して手を抜かなかった。
何よりそれが初範の自慢だった。
『えー、また遠洋漁業の漁船に、食料を積み込むの?』
思わず口を付いたが、下心がある初範は、父との駆け引きにすぐに切り替えた。
『・・・あれ、もういやなんだけどなぁ。・・・どうしようかなぁ。』
すると父は初範の頭を軽くなでてこう言った。
『大きなものを積んだ船が今港についたそうだ。それを引き上げる手伝いをするんだ。今まで観たこともないような大物だ。』
父の勧めとはいえ、剣道を始めたばかりの初範は、本当は道場を休んでまで、アルバイトをするのは嫌だった。
それでも父に促されるまま、初範はひとり港に向かった。誰よりも情報通の父が言うことだから、子どもたちはまだ知らないだろう。
初範の足は知らず知らずに小走りになった。町を抜けて視界が港に開けると、港の向こうに大きな船を見つけた。初範はただただ全力で走った。
案の定港には、初範以外に子どもの姿はまだない。
潮の匂いに何かが入り混じっている。その匂いの元は想像は出来ているが、よほどの大物なんだろう。
もちろん、初範の人生で、そんな大物は見たことない。それどころか、本当を言うとそれ自体、見たことなどない。
その日、巨大なクジラが港に上がった。
痩せた松の幹の皮をはぐ。1本10円のその仕事は子供たちに与えられた単純な作業だったが、初範にはいいアルバイトだ。
10本も仕上げれば、Tシャツ1枚賄える。30本仕上げれば、友達と揃いのTシャツで祭りに出れる。
父にせがんで店のTシャツを譲ってもらうつもりが、いつの間にか、自分で稼いで目の前の夢を達成しようと真剣になっている自分がいた。
もう少し自分が大きかったら、木箱を作る担当になれるのだが初範は相手にされない。
初範となんら変わらぬ幼い子どもたち、
それより年上の道場で一緒の兄さんたちも少しずつ集まり始めた。
子どもとはいえ、いつか町を支える逞しい男たちが港に集まったのだ。それを思うと自分が少し誇らしくなった。
先月8つになったばかりの初範は、間違いなく成長している。心も身体もゆっくりじっくり逞しくなっている。
だから道場や学校の兄さんたちに出来て、まだ自分にはできないことが沢山あることも理解している。
強くなりたい。その一心で、一歩ずつその方向に進んでいるさなかなのだ。
身体はだいぶ大きくなり、丈夫になった。
1年前までは、毎日毎日、いじめられていたのに。
体育館の裏に連れられて、顔や身体をひどく殴られる毎日を過ごしていた。
悔しくて仕方のない日々が続いた。自分がいじめられていることを、両親にも先生にも、誰にも言えなかった。
何に対して悔しかったか。
―弱い自分に悔しくて仕方なかった―
答えはいつも心の中に真っ黒く横たわっていた。
父親に勧められて剣道を始めた。
北海道は全国でも有数の剣道の盛んな地域だった。
特に紋別はえりすぐりの剣士がその土地の歴史を支え、文化を培ってきた。
本州、南は九州から北の大地を目指した人々は、剣術に優れた武家や、武道家の末裔も多かった事が道史にも残っている。
生まれながらに肺に穴の開いた奇病を持ち合わせ、同級生の誰よりもきゃしで虚弱な初範は、2年生に上がる頃に、ようやくその原因が分かり、
適切な治療とともに剣道を通じ、少しずつ明るく成長していた。
人こそ集まれどそれまで静かだった浜辺が一変した。
いよいよクジラを浜に引きあげる時が来たのだ。
浜の近くに停泊する捕鯨船から、小舟が太いワイヤーを浜の男たちに届ける。
すると浜にいた1人の男が、勢いよく海に飛び出し、ばさばさと波を切って小舟に近づいた。
男がワイヤーを受け取ると、それにつづいて背後から大勢の男たちが海に入り列を作る。皆がワイヤーをつかんだ。
一斉に声が上がった。
『オーシコー、オーラドッコイショー』
男たちの声は地を揺らし潮を波立たせるような、怒涛のごとく低く響いた。
初範は身震いがした。
子ども達が軟な手で剥いだ松の幹は、クジラを浜に引き上げるためのコロとなった。
何百本ものコロが、みっちりと隙間なく浜に並べられ、巨大なクジラを傷つけず浜に引き上げるための大仕事をする。
巨大な黒い塊が姿を現した。
『こっだら、でっかいの見たことがない。』初範の近くで、老人がつぶやいた。胸板は厚く、肌は浅黒い。
背筋がピンとしていて、まだ現役の漁師である事が伺える。
『オーシコー、オーラドッコイショー』
掛け声は続いた。
陸に上がりきると、さっき先陣切って海に飛び込んだ男が、巨大なクジラの上にひょいと駆け上った。
下から大きな鉈を投げられると、軽々とそれを受け取る。
初範は息を飲んでその光景に見入った。
20メートルはあろう巨大なクジラが浜にあげられ、横ばいになったその鉈を口の裂け目に一刺しすると、
両手で鉈の柄を力いっぱいに自分の身体に引き寄せる。
グ、グ、グ、グと、皮を切り裂き、クジラの身に深く刺さった刃物の後ろに赤い一筋の道が出来る。
次に男は鉈の刃をクジラの身から引き抜くと、柄の先を支えにぴょんと地面に降り立った。
そしてクジラの腹を割いた。
ザッバーン。
切り裂かれた大きな肉の塊が、海に転がり落ちた。
そしてとんでもない量の血しぶきが上がった。バケツの水を通り越して、まるでプールの水をひっくり返したような量の血だ。
その血は波打ち際に一気に流れ込み、瞬く間に海を赤く染めた。
何とも言えない匂いが立ち込める。
魚のそれとはわけが違う。同じ哺乳類の大きな生物の命の匂いだ。
初範は思った。
それから数日は、クジラの事で頭がいっぱいだった。
どれもこれも初めての体験で、聞けば紋別でもかつて上がったことのないほどの巨大なクジラだったという。
そしていつの間にか祭りの日が来た。
再び、クジラの上がった港に足を運んだ。
赤やオレンジ黄色の色彩の派手なTシャツを仲間とお揃いで着た。
あの日アルバイトで稼いだお金で父から譲ってもらったのだ。
遠くから祭りを知らせる太鼓の音が聞こえてきた。
仲間と一緒に、夕闇に浮かぶ提灯の明かりをめがけて、軽やかに走った。
屋台で買うもの、ゲームの順番は、あらかた決めている。
並んで時間を潰すわけにはいかないから、3人で分担して、それぞれが屋台に調達に行く事になっていた。
初範はモロコシ担当。初摘みの甘いモロコシの匂いが、短い夏をより一層愛おしくする。
屋台の前に並んでいると、モロコシのそれとも違う、何とも言えない甘い匂いが鼻を突いた。
振り返ると、さっきまではさしていなかった、浴衣姿のお姉さんたちが、沢山やぐらの前に集まっている。
そしてその数はどんどん増えていく。
この町に、こんなに大人の女の人がいた事に、何より驚いた。
きっと歳は十六、七~二十歳を少し超えたくらいの独身の女の人たちだ。
日が沈むにつれ、甘い匂いを伴って、お姉さんたちの数もさらに増す。
紺地に朝顔が咲き、白地に艶やかな金魚が泳ぐ。
髪を結いあげ、みな化粧を施し、気色ばんでいる。
初範にも、何かなまめかしく思える祭りの夜だった。
第1話) 12/23掲載 役者への航路1 『今村昌平監督の映画塾へ、さあ出発だ』(横浜物語第3話)
第2話) 1/31掲載 長谷川初範氏ストーリー ―祭り― / 第2回インタビュー 『祭り』
第3話) 表現者として 芸術的思考の源 役者存続の危機も。生死をさまよう15年の葛藤。
第4話) 50歳を過ぎて手に入れたもの。舞台や音楽との出会い。
第5話) さまざまな分野のアーティスト、次世代の仲間と
第5話) 挑戦 ―僕の旅はこれから。この先に何かが待っている。そう思えてならないんだ―
長谷川初範氏インフォメーション
3/23(金) モーションブルーヨコハマ ライブ
長谷川初範 『嬉 喜 奇 な お祭りfesta』 開催決定!!
詳細・ご予約は、下記をご参照ください。↓↓↓
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アーティストインタビューVol.18 pert2 ―祭り― 2/15公開予定