アーティストインタビュー Vol.18 俳優・長谷川初範氏インタビュー 『流氷に乗って』

アーティストインタビュー Vol.18 俳優・長谷川初範氏インタビュー

『流氷に乗って』   (全6話)  

2017/12/23公開 第1話 役者への航路『今村昌平監督の映画塾へ、さあ出発だ』

 

流氷に乗って こぎ出そうよ

氷の浮いた 藍色の海が広がる

両足踏ん張りバランスとって

 

さあ進め

 

火照ったほほに あたる風はまだひゃっこい

冬の日差しに 手に吐く息が広がって行く 

勇気を出して 滑るように

 

さあ出発だ

 

揺れる水平線 浮いてる蜃気楼

海鳥たちも 並んで観ている

 

あれは知床

 

「流氷に乗って」

作詞・作曲 長谷川初範

 

 


長谷川初範氏プロフィール

北海道出身。幼少から剣道の全国大会で活躍し1971年、アメリカ オレゴン州ニューポート高校に剣道のエキスパートとして留学。その後、映画監督 今村昌平主宰の映画塾(現.日本映画大学)を今村賞受賞し卒業。78年テレビドラマ「飢餓海峡」(CX)でデビュー。以降テレビ、映画、舞台と幅広く活躍を続けている。 主な出演作は舞台:「ええじゃないか」(主演)「テンペスト」「No.9-不滅の旋律」「ロミオ&ジュリエット」グラミー受賞オペラ「アイナダマール」テレビドラマ:テレビ小説「純真きらり」(NHK)「101回目のプロポーズ」(CX)映画:主演した短編映画「miss’ ng pages」ではアメリカ各州の映画祭ては12の作品賞を受賞 「いのちの山河-日本の青空II」(主演)「TAKAMINE ~アメリカに桜を咲かせた男」(主演)「真白の恋」「アルビノの木」「HIGH&LOW THE MOVIE 」

 

全6回の目次とアーティストインタビューVol.18 長谷川初範氏インタビューイントロダクションページ

 

第1話) 12/23掲載 役者への航路1 『今村昌平監督の映画塾へ、さあ出発だ』(横浜物語第3話) 

 

第2話) 1/31掲載  長谷川初範氏ストーリー ―祭り―  /  第2回インタビュー 『祭り』

 

第3話) 表現者として 芸術的思考の源  役者存続の危機も。生死をさまよう15年の葛藤。

 

第4話) 50歳を過ぎて手に入れたもの。舞台や音楽との出会い。 

 

第5話) さまざまな分野のアーティスト、次世代の仲間と

 

第5話) 挑戦 ―僕の旅はこれから。この先に何かが待っている。そう思えてならないんだ―

 

長谷川初範氏インタビュー・イントロダクションページ

 


 

第1話 役者への航路 「今村正平監督の映画塾へ、さあ出発だ」 (横浜物語第3話プロローグ) 

 

1974年、暮れも迫った真冬の雪深い森の中に、初範はいた。

月明かりだけをたよりに、森をひたすら進んでいた。

真新しい雪に自分の足跡だけが残る。

 

数日前からずっと迷っていた。夢破れても立ち止まる訳にはいかなかった。

次の道を選ぶため、答えを求めていた。家族が寝むりについた夜中に家をそっと抜け出し森に入ったのだった。

 

 

進んでいくうちに答えが得られるだろう。初めのうちは簡単にそう思っていた。

大事な選択に迫られた時、いいアイディアを求めて考え事が煮詰まった時、

初範は決まってそうしていたからだ。

 

『考え事をする森で、歩き回って考え事をする。』

そうすると、いいアイディがふと空から降りてきたり、選ぶべきものが見つかったりするのだ。

 

雪の森を進み小高い丘のてっぺんまでつくと、今度は木々の周りをぐるぐると歩き回った。

思い詰めてうつむき加減に足元を見つめる。

エゾマツを囲んで半径5メートルぐらいを何周もする。

時に立ち止まって頭上を覆う枝葉からのぞかせる満月を見上げる。

しかしいつもとはわけが違った。

誰もいない青暗い森は静まり返る。

再び歩を進めると、雪を踏む靴音と吐く息の白さだけが浮き立って、自分の存在を強く感じる。

その繰り返しだった。

どうしたことかその日はいくら粘っても決めることが出来ない。

身体は冷えきって、このままだと鼻水が氷柱になるだろう。

手も足の指先もずっと前から感覚をなくしている。

 

― 横浜に新設されたばかりの映画学校があるんだってよ。あの映画監督の今村昌平が作った学校らしいぞ。―

 

剣道の仲間からたまたま聞かされた映画学校の話。

幼いころから映画が好きだった。だから思いもかけず耳にしたそのフレーズは、進路で夢打ち砕かれたばかりの初範を、ほのかな期待の色に染めた。

― 今村昌平監督の映画学校 ―

 

 

初範は16歳で初めての渡米を経験している。剣道のエキスパートとして、北海道からたった一人得られる交換留学の権利を勝ち取り、高校1年生の夏から1年間、オレゴン州の小さな港町で学生生活を送った。

留学は多感な少年時代の価値観を根こそぎ覆した。全身が研ぎ澄まされるような感覚を初めて知った。

それまで当たり前に感じていた何もかも、日常の基準が変わったのだった。

帰国し元の高校に戻ってみると、次に自分の中に訪れた現実は、今度は何もかも『物足りない』とう感覚。

学校の授業や友達との時間が、『退屈』で仕方なかった。

教科書は本当の事を書いていない。そう思えてならなかった。

帰国してしばらくは、歩幅を併せて学校生活を送っていたつもりだが、いつしか周りに合わせることすら出来なくなっていた。

 

だからと言って、初範は何もしないままではいられなかった。

思ったこと、知りたいことを片っ端からやってみた。独学でギターを覚えた。友達とバンドを始め、自宅の納屋を改造してそこでバンドを始めた。

3年生の夏休みには、沖縄について本を読みあさり独自に戦争や沖縄の歴史を追求した。記録や文章だけでは足りず、船や電車を乗り継ぎ沖縄まで旅をした。

そんな初範を見て担任は言った。

『お前、本当に変わったヤツだな。何考えているのかさっぱり分からん。でもお前は、そのまま自分の思うことを突き詰めろ。』

 

初範は、進学について再びアメリカに渡ることを考えるようになっていた。カリフォルニアの州立大学へと進むことに照準を定めて準備を始めた。

しかし、その夢はもろくも崩れ去った。

家庭の事情で、夢を断念せざるをえない状況に陥ったのだった。

 

初範は、紋別市有数の実業家の家に生まれた。

道東の紋別は、見渡す雄大なオホーツク海に、春先流氷が訪れる事でも有名であるが、この市を知る上ではもう一つ欠かせない場所が存在した。

それはゴールドラッシュに沸きあがった鴻之舞鉱山(こうのまいこうざん)を抱える市であるということだ。

鴻之舞は、紋別市の中心市街地であるオホーツク海側から約25キロほど南下した場所に位置する。

この地を含めてパンケナイ、ウソタンナイなどの川で明治30年代頃に砂金が発見されたことをきっかけに「ゴールドラッシュ」となった。1915年(大正4年)に鉱床が発見されると、鉱区設定を巡る紛争が起きた。1917年(大正6年)に住友(のちの住友金属鉱山)が経営権を得て以降1973年(昭和48年)に至るまで操業を続けた。鴻之舞鉱山は金・銀・銅を産出したが、中でも金の埋蔵量が豊富で、佐渡金山、菱刈金山に次ぐ日本で第三位の産金の実績があった。

そんなゴールドラッシュに沸いた町に、二人兄弟の長男として初範は生まれ育った。父は北海道でも有数の大型のスーパーマーケットを経営し、札幌ですらなかなか手に入れることのできない品ぞろえで、紋別に二つ店を構えていた。

自室は一般家庭のリビングほどの広さをあてがわれていた。父親が買付を兼ねた東京や横浜への旅行によく初範を連れて行ってくれた。そのたびに欲しいものは何でも買ってもらえた。土産の品やコレクションはどんどん増えていき、部屋を埋めた。

しかしそんな恵まれた環境の中に育った初範の暮らしも、大学進学を前に、家業の経営難により、大きな夢のつまった海外留学の計画は、泡と消えたのだった。

 

 

とにかくその日はどうにもならなかった。

身体が冷え切り『考え事をする森』にいるだけで、思考も止まる。

答えが見つかるよりも寒さに負けた。

かといってまっすぐ帰るのもしゃくだから、町に降りて暖を取ってから帰ろうと、宵の口まで営業する町の小さな食堂に立ち寄った。

 

「いらっしゃい。」

前のお客の後を片付けながらおかみさんがそう言って、寄れた新聞をポンと隣のテーブルに置いた。

そこに座って、という合図だ。

 

初範は、凍えきった身体を振るわせて、席についた。

店内の温かさにじわじわと固まった身体がゆるんでいく。

無造作に置かれた、テーブルの上の新聞を手にしたくても、かじかんだ指先はしばらくいう事を聞いてくれそうにない。

それでも4つ折りにたたまれ、こちらを向いた紙面は、自分に向かってこう言った。

 

『今村昌平監督創設の横浜放送映画専門学校、第2期生募集』

 


長谷川初範氏インタビュー

 

盛島 : 今日はよろしくお願いいたします。早速伺います。北海道紋別市出身との事ですが、実は上京したきっかけは横浜への進学だったそうですね。だいぶ以前から横浜とは縁が深かったわけですね。

 

長谷川氏 : 宜しくお願いいたします。映画監督・今村昌平さんが創設した「横浜放送映画専門学院」というのが、横浜駅すぐの場所にありましてね。僕はそこに通った2期生です。だから横浜はものすごく思い出深い町ですよ。このみなとみらいのエリアなんて、本当に昔から大好きです。だいぶ変わりはしましたけど、マリンタワーや山下公園の眺めなんかは、昔のまま横浜らしい趣きがありますよね。紋別で暮らしていた幼い頃にも、実は横浜にはよく遊びに来ていました。

 

盛島 : そうなんですね。ご親戚がいらしたとか?

 

長谷川氏 : いいえ。父親の事業の関係で、年に何回か、東京や横浜に買付を兼ねて、家族旅行で連れて来てくれたんですよ。東京よりどちらかというと僕は横浜が好きでね。東京タワーよりもマリンタワー。なんか、シルエットというか、フォルムがキレイで。マリンタワーのミニチュアを横浜に遊びに来るたびに集めました。

 

盛島 :そうだったんですね。他に横浜でお気に入りの場所などあったら教えてください。

 

長谷川氏 : 学生の頃ね、元町商店街周辺をよく散歩しました。あの通りの落ち着いた感じが好きで。貧乏学生でも、髪の毛を切るときはこだわりがあって、元町にあった美容室に通っていました。今でもああいう街に住みたいなぁって思いますよ。

 

盛島 : 長谷川さんが元町商店街の一角にお住まいで、待ちゆく人とあいさつをかわして・・・。想像するとドラマのワンシーンみたいですね。素敵な光景です。

 

長谷川氏 : 昔から、あの周辺の町の感じが大好きです。横浜らしいよね。

それにしても本当に上京してからの学生生活、お金がなくてね。田園調布の風呂なし4畳半のアパートに住んでたんだけど、狭いのがまずダメだった。(笑)まるで押し入れに住んでるみたいって思っちゃって。

北海道で暮らしていた時はそれこそ自分の部屋だけで10畳くらいあったんですよ。

広々とした部屋に、好きな物に囲まれて。そこから上京して専門学校に進んだら、父親の経営する会社の倒産があって。そのあおりを受けて、仕送りもなくなってしまって一機に貧乏生活。アルバイトを掛け持ちするけど、それでも足りなくて、本当に毎日食べるのもひもじい思いしました。

 

盛島 : お金持ちの家に生まれ育って、アルバイトなどもあまり経験がなかったんじゃないですか?

 

長谷川氏 : いえ、オヤジが変わった性格していましてね。小学生のうちから、新聞配達や牛乳配達のアルバイトをさせられていました。そういう意味では子供のころから逞しい方だったかな。なんでもできました。

 

盛島 : 小学生のうちからアルバイトですか?

 

長谷川氏 : はい。事業をやっている家で、昔は羽振りもよかった分、そういう家庭で育って、甘やかされて世の中を知らないまま大人になるのはよくない、という方針だったらしいです。

他にも、冬になると、朝スキーに連れていかされて、山に登ってスキーで降りてくる。

これをひたすら毎日やらされました。本当にあれが嫌で嫌で。

話を戻すと、アルバイトなんかは結構経験していたから大丈夫だったんだけど、田園調布の狭いアパートにオヤジが転がり込んできて。その時は正直、恨みましたよ。

何もすっからかんになるまで律儀にみんなにお金返して、丸裸同然で、俺のところに来ることないのにって。100万でも俺に金を残してくれたら、俺がどれだけ助かったか、って。

 

盛島 : 4畳半のアパートに大の男が二人・・・。確かに厳しい状況ですね。

 

長谷川氏 : でもね、今になってオヤジに感謝しています。だって、考えてみたら僕は北海道のふるさとの人たちに、何かある度に呼んでもらったり、それこそ喜んで迎えてもらえるんですよ。

音楽祭に出させてもらったり、イベントやなんかでも、みんなが笑顔で集まって来てくれる。

オヤジが回りの人に最低限の事をちゃんとやって、迷惑をかけないでくれたから、今の僕にも皆さんが良くしてくれるんだなって。100万なんてお金は、頑張れば自力で稼ぐことできるじゃない。あの頃は本当に大変だったけど、貧しい環境に負けないで、僕は頑張れたわけだし、丸裸になってまでも、オヤジは最低限の義理を尽くしたんだって。

 

盛島 : そうだったんですね。ふるさと北海道のみなさんとの交流からも、長谷川さんはお父様の事を時間をかけてそんな風に受け止められるようになられたんですね。

専門学校での体験などをさらに聞かせていただいてもよろしいですか?

今村昌平監督が創設された学校への進学が、役者を目指される直接のきっかけと言う訳ですね。

 

長谷川氏 : 演劇科に進みました。今村昌平氏の制作舞台に『ええじゃないか』というのがありまして、そこで藤田弓子さんの相手役で選ばれました。この舞台で僕は今村賞を受賞し、二期生として卒業しました。

 

盛島 : すでに専門学校時代には、藤田弓子さんの相手役で大抜擢され、期待の新人という事だったんですね。役者への手ごたえとか、自信などはいかがだったでしょうか?

 

長谷川氏 : いやぁ、そんな何にも考えていなかったですよ。学校だってどうせそのうちつぶれるって思ってたくらい。卒業式の打ち上げで、トロフィーと賞状、店に置いてきちゃった。(笑)

そうしたら、今や大学になってるもんね。びっくりだよ、本当に。

 

盛島 : えっ?!なくして帰ってきちゃったんですか。長谷川さんご自身はあんまり気にしない性格なんですか?というか役者への大きな夢や野望はそれほどなくて、案外現実的だったのでしょうか。でもその後も次々と作品に参加され、私たちがよく知っている役にも大抜擢されていますよね。例えば『ウルトラマン80』主人公・矢的猛役で初主演。その翌年には映画デビューを果たされたりと。順風満帆な役者人生をスタートされたように想像します。

 

長谷川氏 : 初主演映画はね、なかなか厳しいスタートでもありましたよ。脚本見た時、僕あまりにつまらなくて、助監督に本心言ったもの。「これ、誰が観に来てくれるんですか?」って。そうしたら、助監督が僕を呼んで、言ったんですよ。

「長谷川さん、今監督お見えになられていますから、脚本の件、ぜひ長谷川さんから直接伝えてください。」って。

びっくりしちゃったよ。俺が言うの?監督に?って。

でももう、その場が用意されている訳。監督の前に座らされたら、僕もう言うしかないよね。

「監督、脚本読ませていただきましたが、途中、あまりにつまらなくて、失神しそうになりました。」って。

 

盛島 : え、、、。これから映画撮ろうというときに、そんな始まり方って。大丈夫だったんですか?

 

長谷川氏 : いやー、もうそりゃ、監督だって何言っているんだ、って思うでしょうね。これで10年この世界から干されるな、って正直腹くくりましたね。でも話まとめると、結局のところ、失神しそうなくらいつまらない部分は、僕が脚本を書きなおすことになり、映画公開になりました。

 

長谷川さんのお話は、テレビや映画、舞台を中心に、芸術的な話題にまで発展しました。

第2弾では、生まれ育った郷里でのお話を中心に、病弱でいじめられっこだった幼少期の意外なお話から、剣道に目覚めて、全国大会に出場し、次々と素晴らしい賞を取られるまでになった少年時代、そして、剣道の実力で、ロータリークラブの交換留学の権利を得て、オレゴン州へ留学したことを中心に展開いたします。大自然を背景にした雄大なお話の数々を、どうぞお楽しみに。

 

【長谷川初範さんインフォメーション】

2018/3/23(金) 長谷川初範 with Parallel Universal モーションブルーヨコハマ・ライブ決定!!(詳細分かり次第、当記事からもご案内させていただきます。)

長谷川初範Wikipedia

 

 

次号 第2弾は2018年1月10日掲載予定です。

Post Author: staff_01

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