アーティストインタビューVol.19 岡田奏さんインタビュー
―大絶賛されたエリザベート王妃国際音楽コンクールから2年。世界中を魅了する若き日本人ピアニスト岡田奏の礎を探る―
2018/5/27 公開 記事 盛島さつき
クラシック音楽の中でも特に数多く存在するピアノ曲。ピアノという際立った存在感の楽器を愛する音楽ファンも多いのは言うまでもなく、私もまたその一人です。幼い頃に始めたピアノレッスンと併せて、両親が私を連れて、足しげくクラシックコンサート(特にピアノのリサイタル)に通った事は、その後の私の人生観にも芸術に対する趣向にも、大きな影響を与えました。中でも、故・中村紘子さん(ピアニスト)に関しては、私にとって特別なアーティストでした。演奏機会だけにとどまらず、テレビなどのメディア露出も多かった彼女は、日本人ピアニストの代名詞とまで言われ、私の憧憬にもシンボリックに彼女の姿と演奏は、煌々と輝きつづけました。私は成長するとともに、いつしかピアノの音を求めて、さまざまなジャンル、アーティスト、作曲家、会場、作品を聴きに、ピアノに関連する実に多様な機会に通うようになり、ついには自ら事業を立ち上げ、コンサート企画をはじめとし、音楽に携わる仕事をさせていただくまでになりました。
2016年のエリザベート王妃国際音楽コンクールの様子が世界中に配信され話題となった動画を、たまたま目にする機会がありました。注目を集めた日本人の女性の演奏です。彼女の演奏に強い衝撃を覚えたのと同時に、その1曲を聴いただけで、後に彼女の演奏しか思い浮かばなくなるほどに、心揺さぶられる、そんな体験をしました。
その女性が、まさしく岡田奏さんです。
「とてつもないピアニストが現れた。」そう感じずにはいられませんでした。その後の奏さんの活躍に、あの時感じたこと、奏さんの突出した実力を今改めて認識しています。
岡田奏さんは15才でフランスに渡り、数々の国際コンクールで1位を受賞、また在籍した音楽大学院まで首席で卒業し、間もなく各国での交響楽団と共演するなど世界中で活躍しているピアニストです。まだ20代の若きアーティストは、この先さらなる活躍で、多くの素晴らしいステージを経験し、クラシックの歴史に名を残すことなるでしょう。
横浜ヴィアッジオアーティストインタビューVol.19にて、そんな素晴らしい実力を備え、世界中での公演とともに、各種メディアでも活躍されるピアニスト、岡田奏さんのインタビューを撮らせていただきました。
岡田 奏 (ピアノ) Kana Okada, Piano プロフィール
函館市生まれ。15歳で渡仏。パリ国立高等音楽院のピアノ科と室内楽科を最優秀で卒業、修士課程を最優秀で修了し、第3課程アーティスト・ディプロマ科を経て、ヨーロッパと日本を拠点に活動している。8歳でリサイタル・デビューを果たし、12歳で開催したショパンのエチュード全曲演奏会や、NHK-FM「名曲リサイタル」は絶賛された。これまでに、日本、フランス、ドイツ、イタリア、モロッコ、ポーランド、スペインの各地でリサイタルを開催し、フランスとベルギーではフランク・ブラレイと共演している。これまでに、ベルギー国立管弦楽団、シモン・ボリバル交響楽団、東京フィルハーモニー交響楽団、東京交響楽団、京都市交響楽団、名古屋フィルハーモニー交響楽団、仙台フィルハーモニー管弦楽団、兵庫芸術文化センター管弦楽団、中部フィルハーモニー交響楽団等のオーケストラと、マリン・オールソップ、ポール・メイエ、ヘルムート・ライヒェル・シルヴァ、クリスティーナ・ポスカ、小林研一郎、広上淳一、山下一史、大井剛史、円光寺雅彦、三ツ橋敬子等の指揮者と共演している。今後のハイライトは、四川交響楽団(中国)との「ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番『皇帝』」、尾高忠明指揮札幌交響楽団との「ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番」、西本智実指揮日本フィルとの「ラフマニノフ:パガニーニの主題による狂詩曲」などがある。音楽祭への出演も多く、アンヌ・ケフェレックが芸術監督を務めるサントンジュ・ピアノ・フェスティバルのほか、ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン、パリのショパン・フェスティバル、アヌシー国際音楽祭、コマンジュ・フェスティバル、エガリエール・ミュージック・フェスティバル、エルヌ・ピアノフォルティッシモ、韓国のピース&ピアノ・フェスティバル等、いずれも好評を博す。また、NHK-FM「リサイタル・ノヴァ」および「きらクラ!」をはじめメディアへの出演も多数行っている。多数のコンクール歴を持ち、2013年第8回プーランク国際ピアノ・コンクール第1位、2013年第12回ピアノ・キャンパス国際コンクール第1位を獲得したほか、2016年エリザベート王妃国際音楽コンクールのファイナリストとなり話題を呼ぶ。ピアノを加茂和子、植田克己、上田晴子、ジョルジュ・プルーデルマッハー、フランク・ブラレイ等に、室内楽をクレール・デゼール、イタマール・ゴラン、ブルーノ・パスキエ等に師事。文化庁新進芸術家海外研修制度研修生、ローム・ミュージック・ファンデーション奨学生を経て、現在はフランス・バンクポピュレール財団奨学生。一般財団法人地域創造による公共ホール音楽活性化事業(おんかつ)平成30・31年度登録アーティスト。
岡田奏さんへの出演依頼は、株式会社パシフィック・コンサート・マネジメントまでお願いいたします。
http://www.pacific-concert.co.jp/
インタビュー
お生まれになられたのは函館ですね。奏さんご自身の経歴を簡単に教えていただけますか?
函館で生まれ育ちました。音楽やピアノに慣れ親しむ環境に育ち、地元の公立の小・中学校を出て、当時第一志望だった音楽院の合格を機に、フランスに渡りました。
パリ国立高等音楽院には高等課程から、ピアノ科と室内楽科修士課程、第3課程を修了までの約10年にわたり在籍しました。現在は、国内外の公演に出演させていただいています。
ありがとうございます。それではまずは奏さんがフランスに渡られる以前のお話を中心に伺いますね。15歳までお過ごしになられた函館での生活について。教えていただけますか?
父も母もピアノを弾く家庭に生まれ、特に父についてはピアニストですので、物心つく前からピアノや音楽に慣れ親しんできたように思います。
幼いうちは近所の小さなピアノ教室に通いピアノを学びました。はじめは直接父のレッスンを受けていたわけではなく、またピアノ以外にもおけいこ事というのでしょうか、習い事はやっていました。
中学に上がってすぐ、ピアノ教室の先生がアメリカに渡ることになり、教室がなくなってしまって。そこから父の指導を受けるようになりました。
以前、幼い頃の奏さんとお父様が、とても楽しそうにピアノを弾いていらっしゃるのを、動画でお見かけした記憶があります。親子で楽しくピアノの時間を育んで来られたのですね?
・・・うーん・・・。そんなに甘いものではありませんでした(笑)。
正直、父は厳しかったです。今でこそ父からピアノを教わったあの時間は、とても貴重で、私のフランスに渡ってからの暮らしの糧となり、頑張りぬく力になったのだと思えるまでになりましたが、父の指導を受けていたその真っ只中では、父の厳しさにやりきれない思いを抱えた事もありました。ずいぶん反抗した時期もありました。
それはとても意外です。ピアノのお話を絡めて、お父様との思い出やエピソードなどありますか?
生まれ育った家には、吹き抜けの部屋にピアノが置かれていました。私はそこで毎日ピアノを弾き、父のピアノの指導を受けました。
その場所がきっと私たち家族の中心の場所なんだと思います。父の指導が厳しい分、父のいない時間に思うがままに自由に弾くピアノが楽しかったりしましたね。
案外そんな時こそ、吹き抜けの2階で、父が黙って私のピアノを聴いていたりするんですけど。
ある日父とピアノの事でぶつかったことがありました。というか、ぶつかるのは決まってピアノの事なんです。
父はピアノ以外の事では、私に何も口を出さない人で、とにかくピアノに関してだけ、厳しかったんです。
中学生の1年か2年の頃だったと思います。「奏、こんなのも出来ないのか。」というような事を父に言われたんです。
それが引き金で、父と大ゲンカになり、反抗期も手伝ってか、「もうピアノなんかやらない!」そんなこと言ってしまって。
しばらくピアノを弾かない生活に。でもそうすると今度はピアノを弾きたくなってくるんです。ある日学校から帰ってピアノの前に座りました。しかし、開かないんです。
ピアノに鍵がかかっていて・・・。びっくりしました。探しても探しても鍵は見つからない。父の仕業でした。
理由はなんであれ、嫌で自分が弾かなくなったピアノが、今度は自分が弾こうと思っても弾けなくなる。ますます私はピアノを弾きたくてたまらなくなりました。
父は私の負けず嫌いの性格を見抜いていたんですね。今思うと笑ってしまうような出来事ですが、そんな事がありました。
お母様はそんな時どうされていらっしゃるんですか?お母様についても教えてもらっていいですか?
母はとても穏やかで温かい人です。いつも私を見守っていてくれて。音楽について父が厳しい分、母は音楽については一切私に言いませんでした。
それが良かったと思います。もしかしたら両親の間で、役割分担をしていたのかもしれませんね。私は母には甘える事ができました。
母とっても料理が上手なんです。パリの生活が長く、函館にたまに帰った時は、母の手料理が身に沁みました。
私もひとり暮らしが長くて、料理作るの苦にならないんですけど、料理が得意な母のおかげもありますね。いろんなところで言っている事ですが、将来、母のような人になりたいって、そう思います。
強いけど優しい。何も言わないけど温かい。そんな人です。
そうなんですね。そんなご両親の元を15歳で離れ、フランスに渡られる事になりますね。
ある意味、同級生の友達よりも一足早く親元を離れて。実際いかがだったでしょうか?15才でフランスへ渡るその経緯も含めて、フランスでの生活、詳しく教えていただけますか?
まず留学先にフランスを選んだのは、それより前に遡って、父とヨーロッパを音楽旅行する機会を経たことが大きなきっかけです。パリに1週間ほど滞在したことがあったのですが、町の雰囲気も人の感じも、どれをとっても素敵に見えました。「またこの街に来たい。」パリのここかしこに魅力的な何かが散りばめられているように思いました。そしてパリを離れる時に私は、「またパリに必ず来る」。そう強く思って、日本に戻りました。
実際には、受験の時期に国内の音楽高校(東京芸術大学音楽学部附属音楽高等学校)の受験準備をしていましたが、先に受験したパリの音楽院の合格が決まって、渡仏を決意しました。
15才の少女が、ひとりフランスで音楽を学ぶ。いかがだったでしょうか?順風満帆に行きましたか?
正直なことを言うと、はじめの1年は本当に大変でした。言葉の壁ですよね。英語ならまだしも、フランス語が全く出来ず、買い物一つままならない。学校の勉強が分かるわけがなく。
まずコミュニケーションがそれなりに十分に取れるまでに、2年はかかったんじゃないかな、と思います。逆に言うと、パリでの生活そのもので、かなり鍛えられたとも思います。
言葉がわからないからって、黙っておとなしくしていたら、それこそもう、おしまいです。まわりに甘く見られてしまって、相手にされなくなります。
フランス人は特にだと思いますが、自分の意見や意志をはっきり伝えないと、受け入れてくれません。日本人はへらへらして笑っているだけで、自分の意見も持っていないのかって。
分かり合うための入り口を自ら閉ざす事になるんです。言葉が通じない中で、その事がとても危険だということを、私は早いうちに知りました。毎日闘うような生活でもあったと思います。
ストレスもいっぱいあったし、それこそ私が15才や16才の頃って、今のように海外で自由にケータイが使える状況にまだなかったんです。テレホンカードを使って、公衆電話で国際電話していました。
実家に電話をして母の声を聞いて。日本語で愚痴をこぼして。それが私の弱音を吐ける、大事な逃げ場でした。
あと、私の周りには、外国からの留学生の仲間が沢山いましたので、そういう意味では一人ぼっちではなかった。一番若かったのもあって、みんな私をかわいがってくれました。
フランス語が母国語でない留学生同士は、やはり分かり合えるものがありましたよね。
そのコミュニティの中で、フランス語を教わったりも出来ましたし、辛いことがあっても、それを乗り越えることのできる仲間を私は得ました。
そういう暮らしの中で、具体的な音楽レッスン、ピアノの個別レッスンなどはいかがだったでしょうか?
ピアノのレッスンの時間というのは、まさに私にとっては、水を得た魚の状態です。言語を越えたところで学べますので。
先生方と、音楽性やピアノで会話を重ねていける。そんな感覚です。言葉の壁を気にせず、無心に音楽に入り込むことができるので、とにかく私にとってピアノのレッスンを受けている時間は、あたり前なんですが、もっとも重要で貴重な時間でした。
私は市街のアパートに一人暮らしをしていましたが、クラビノーバがあるだけで、日々の練習を重ねていくには、十分な環境とは言えませんでした。
必然的に、学校の練習室でピアノを弾くことになります。学校の事務室まで行って、練習室の予約をして、順番をまって、自分の練習時間が終わったら、また練習室の予約をする。
次の順番が来るまで、どうしても間が空くんですね。それまでどうしているかというと、図書室やカフェテリアを使って時間を潰すんです。
だから学校には本当に長い時間いましたよね。でもそのおかげで、学校のスタッフさんたちは、沢山いる学生の中でも、私のことを覚えてくれたり、メリットも案外ありました。
10年間もお世話になったということも本当に大きい。久しぶりに学校に戻った時に、受付のところで、「Kana」って言ってもらえた時は、本当に嬉しかったです。
自分にとって思い出深い場所でも、スタッフの方が覚えてくれているとは限らないから。ふるさとに帰って来たって思えて、ささやかなことですが、そんなことがとても嬉しかったです。
奏さんは、さまざまな国際コンクールのピアノ部門でも1位を獲得されていますが、中でも話題になった2016年のエリザベート王妃国際音楽コンクール。ファイナリストに選ばれましたね。当時のことをお聞かせいただけますか?
あれは、私の大学院生活、長い学生生活最後の年でした。
私には大きな課題がありました。恩師に長く言われてきて、克服したかった課題なんですが、
「君のピアノは情感豊かだが、怒りや悲しみと言った負の感情の部分が、まだ表現し切れていない。」というものです。
私自身も感じていました。卒業までにどうしてもそれを表現できるようなりたかった。
でもなかなかそこに行きつけずにいて、心のどこかに焦りもありました。
ついには、エリザベートのコンクールのシーズンに入り。
ファイナルでの私の演奏を聴いて、恩師が後で私に言ってくれました。
「君に内在するさまざまな感情が見事に表現されていた。」と。
あの言葉を聴けて、本当の意味で、達成感を得た思いです。
あのコンクールで、ようやく私は恩師に報いる事が出来ました。私自身も出し切ることが出来たと思えるステージでした。
ファイナリストに選ばれた事よりも何より、も恩師に報いることが出来た事に、喜びを感じられたんですね。
その通りです。ようやく最後に恩師からそのような言葉が聞けたことの方が、私にははるかに大きく、実りのある事でした。
あのコンクールで、フランス中でも奏さん注目され話題になられましたよね。いかがでしたか?
長くフランスで生活してきたおかげで、フランス語を自由に話せるようになり、インタビューでもフランス語で答える様子が写されました。
それがフランス人の心に届いたのかな、と思います。「フランス人のハートを持ったピアニスト」というようなコメントが沢山あがりました。
私もある意味でパリで育った思いですので、そんな風に現地の人に受け入れてもらえたのは、本当に嬉しかったです。
― 岡田奏さんインフォメーション ―
岡田奏・横浜市開港記念会館ピアノリサイタル開催
2018/6/2(土) 13:30開場 14:00開演
横浜市開港記念会館1F講堂
チケットお求めの方は、当日会場にて承ります。 当日受付 12:30~13:30
お問い合わせ 090-5323-2201 / yokohamaviaggio@gmail.com
公演への岡田奏さんメッセージ (岡田奏、2018年6月2日(土)横浜開港記念会館 リサイタル)
こんにちは、ピアニストの岡田奏です。この度、皆様の前で演奏できることを心から嬉しく思います。
今回は、私が15歳の時から住んでいるフランスの作品ばかりを集めました。
私にとってフランス音楽とは、いわば自分の血であり母国語のような存在です。
自己が形成される多感な時期にヨーロッパに渡りましたが、すべてが新鮮で、かつ刺激的でした。
それから10年以上の年月が流れ、今ではむしろフランスの気風が自分にとって自然だと感じる一方で、日本で経験することはまるで新しいことのように思えます。
日本で生まれた日本人であるけれど、あまり日本人らしくない自分のことがたまにわからなくなってしまうこともありました。
しかし全ては紛れもない真実で、そんな自分であるからこそできることもあるのではないかと思えるようになった、この数年です。
楽譜として遺されている偉大なアートに息を吹き込み蘇らせることは、アーティストである私たちの生き方そのものを映し出します。
そのために日々自問自答を繰り返しながら、この世界の矛盾や不条理に目を向け、音楽とは何かという永遠の答えを追い求めながら生きています。
作品と会場と楽器と聴衆の皆様、まさにすべてが一期一会である瞬間を共に過ごせますことを心より楽しみにしております。
http://animato-musicarts.net/okadakana-yokohamakaikoukinenkaikanconcert
アーティストインタビューVol.19 岡田奏インタビュー 2018/5/27 公開 / 記事 盛島さつき