「横浜Viaggio第1回アーティストインタビュー」 PAGE 1: Autumn2014 SCHOLE inc.作曲家兼音楽プロデューサー 小瀬村晶氏

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小瀬村晶(こせむら・あきら)

1985年生まれ、東京都出身。2007年、学生時代から活動を続けてきた菊地慎と共に音楽レーベル「SCHOLE」を共同設立。同年、「It’s On Everything」でデビューを果たす。その後、映画や舞台からテレビCFに至るまで数々の音楽監修を手がけ、海外のメディアからも高い評価を受けている。代表作、アルバム「How My Heart Sings」、映画「最後の命」、Blendy 特濃ムービーシアター「旅立ち篇」ほか。

「日常と音楽・ピアノ」について
~これまでを振り返って。印象に残っていること、影響を受けた音楽、ミュージシャン~

物心ついた頃にはすでにピアノを弾くようになっていたので、自宅にはヤマハのアップライトピアノがありましたし、ピアノの存在というのは幼い頃からずっと近くにありました。あくまで当時の印象ですが、ピアノを教わっていた教室のおばあさん先生がちょっとした癇癪持ちの恐い先生だったので、頭を叩かれないように教室の前の日はそれなりに練習をしていたのを覚えています。

初めて音楽に影響を受けたと思える作曲家との出会いは、映画作曲家のJames Hornerの手掛けた映画音楽との出会いでした。当時10歳かそこらだったと思いますが、あまりに美しいオーケストレーションの音楽に子供ながら涙したのを覚えています。すぐに母親に頼んでサウンドトラックアルバムを買ってもらいました。そのサントラ盤はそれこそ擦り切れるほど聴いたアルバムです。

 

~‘音楽のようなもの’ を作り始めて~

初めて作曲したのは10歳頃だったと思うのですが、もうその曲はまったく覚えていません。なんとなくピアノで遊んでいて作曲したのですが・・・。

18歳の頃に、その当時流行っていて手に入れた小型のレコーダーとノートパソコンを使って‘音楽のようなもの’を作り始めたのがいまに繋がるきっかけです。デビューしたのは2007年の7月です。当時僕はまだ学生でした。

実は当時、僕は何の前触れもなく、突然に身体と心のバランスを大きく崩してしまい、学校にも通えなくなってしまった時期が半年ほどありました。

それは就職活動の時期で、友達は自然と将来を選択する準備を始める中・・・。

僕はというと特に就職に対しての夢もビジョンも持っていませんでした。そんな時期に、突然電車にも乗れないような状況になってしまって。

普通に生活できないのに、仕事なんてできない。半ばあきらめの状態で、といっても、それほどのあせりもなく・・・(笑)。

その間に、音楽を作るようになりました。あとすることといえば、散歩したりとか・・・。

どこへも行けなくなってしまった僕は、自分へのリハビリを兼ねて、毎日近くの公園を散歩して過ごしていたのですが、その際に、小型のレコーダーで外界の音をなんとなく録音し始めたのが、曲を作るようになり、アルバムをリリースするようになった、ようするに今の僕につながるきっかけです。

話を戻しますと、何となく拾った音を持ち帰ってノートパソコンに取り込んで聴いてみると、確かに自分はそこにいたはずなのに、不思議と僕が認識していた音とは少し異なる音が録音されているのに気がつきました。僕にとってそれは、普段、気に掛けないと聴こえないような音が世の中には溢れているということに気がつくきっかけになりました。

それ以降、僕は録音してきた音をコンピューター上で編集し、繋ぎ合わせて、架空の風景を作るようになりました。

無声映画と真逆の、音だけの映画、のようなイメージでした。

そしてそれだけでは少し味気ないので、そこに寄り添うように、即興的に演奏したピアノを重ねてみたり、シンセサイザーを少し重ねてみたり、ということを繰り返して、なんとなく出来上がった音楽(と呼んで良いのかも当時はあまりよく分かりませんでしたが)をmyspaceというインターネット上で音楽を公開するサイトに公開してみたのがすべての始まりです。

2006年の初夏、それをたまたま聴いたオーストラリアのメディアアーティストでプロデューサーのLawrence Englishがアルバムを作るように声を掛けてくれて、翌年に晴れてアルバムがリリースされることに決まり、2007年の初夏に輸入盤として日本でも発売され、人知れずデビューしました。

 

 

Q. ご自宅にこもられていたのは、半年間ですよね。実際には短い期間の中で、今につながる音楽を作り出してこられた。その期間がないと今の小瀬村晶さんもないわけですよね。

・・・ といっても何にもすることのない半年間です。たっぷり創作するだけの時間があり、その中を音楽とともに過ごしていました。

2005年、2006年頃はインターネットで音楽を共有するのが活発な時期で、マイスペースとか。アマチュアミュージシャンがコンピューターを買って、比較的安価で手軽に音楽を作れるようになり始めた頃でした。バンドブームが終わって、若い子でも、テクノとかDJとか、その流れの中にいました。僕も手軽に音楽が始められて、家にピアノがあって、鳴らして。そういうのをやっていると、日本よりは外国の人が見ていてくれたりして。アメリカとかヨーロッパとかから、メールが来るようになって。そして、先ほどお話したように、オーストラリアのレーベルからアルバムを出すことが決まって。

一度海外のレーベルからリリースすると、ほかからもどんどん話がくるんですね。でもそれはビジネスではなく、セミプロというか、有志でやっているといった感じのものがほとんどでした。でもリスナーはいっぱいいて。1万人くらいが聴いてくれたり。

自宅の6畳間とかでなんとなく作った音楽が、いきなりインターネットを介して、1万人に聴かれてしまう。そんな、とんでもないスケールの出来事が、一夜にして起こる。大きく自分の生きる世界が変わる、というか、世界とつながっているということを、6畳間の自室から目の当たりにした、すごい体験でした。

Scholeロゴ

SCOLE INC. Offical Website    http://www.scholecultures.net/

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~映画音楽と舞台音楽制作を担当して~

Q. 舞台「MANON」にて舞台音楽を。そして今回、「最後の命」にて、映画音楽を担当されたと思いますが、実際いかがだったでしょう。

舞台音楽は、まず、舞台監督、演出家と打ち合わせをするのですが・・・とても漠然とした状態、大まかなプロットしかない状態から音楽を作り始めないといけませんでした。具体的な尺(曲の長さ)も決まっていません。

それと比較して、映画音楽というのは、すでに撮影されたフィルムのシーンごとに秒感覚で付ける音楽の長さが決まっていて、一つ一つ、映像から音楽を当てはめていけばいい、というように、取り組み方がまったく違いました。

舞台音楽といっても「MANON」はコンテンポラリー・バレエの作品で、セリフは一切ありません。
ですので、もちろん脚本などもなく、僕はとにかくプロットに書かれたイメージの音楽をなんとか想像力だけで作っていきます。そして、出来上がった音楽に合わせて、振付が入る。つまり僕の作った音楽が、ストーリー展開、情感など、表現される要素の基盤になるんです。
実際、演出家の方の頭の中には、最初から音楽のイメージから、振付、全体の演出まで、すべてのことが出来上がっていたと思います。
なので、曲を作って提出すると「これじゃ踊れないよ」とつき返されたり(笑)。
そんなやり取りを何度も繰り返しながら、舞台音楽は完成しました。
音楽を作るための材料は、わずかに書かれたプロットのイメージだけだったので、それぞれのシーンがどういった形で最終的に表現されるものなのか、皆目見当もつかないわけです。なので、本番間際まで僕はその舞台の画がわからなかった。音楽を作りながら、これは一体どうなるんだろうと・・・。
そんな暗中模索というか、不安の中でとにかく制作は進んで、ゲネの段階あたりだったでしょうか。初めて舞台を目にすることができて。
自分が作った音楽がどのように展開されるか、その時やっとつじつまがあったというか、映像と音楽が結びついたんです。
そしてそれはもの凄い情報量で・・・1回観ただけではとてもすべてを追えませんでした。

舞台はまるでオーケストラのようでした。
総勢30名を超えるダンサーの振り付けが一人ひとり違って、複雑で、奥行きがあって。
総合芸術の素晴らしさを実感しました。

 

― 映画に話が移って ―

 

舞台音楽がとにかく大変だったその経験があってか、映画音楽(今回の映画音楽)はそれと比べるとずいぶん楽でした。初めからフィルムがある分、音楽を作る上での材料が圧倒的に多いので、そんなに迷うようなこともなかったと思います。制作した音楽は全体で35分くらい。「MANON」では約80分の音楽を作ったので、音楽の分量という意味でも半分以下でしたそれでも今回の映画音楽は当初の予定に比べて、曲数も分数も増えたんです。

映画は社会派の作品で、とても静かでシリアスな印象です。はじめは必要最小限に音楽を入れてストーリーが静かに淡々と展開していく、という話だったんですが。ふたを開けてみると、音楽を当てはめる箇所が予想より増えていきました。

監督と打ち合わせをする過程で、段々と音楽を付けるシーンが増えていったんですね。なので、少し席を外していた映画プロデューサーの方が戻ってきて「あれ?私がいない間になんだかずいぶん曲が増えていませんか?」なんて、冗談ですが、言ったりして。
映画は、音楽をどの程度付けるのか、付けるのであれば、どういったものが効果的なのか、監督を始めとしたチームで話し合い、一つずつ決めていきます。常に音楽が鳴っている舞台に比べれば、分量自体は少ないですが、とても繊細な作業でした。
実際、今回の映画では、全体の約4分の1に音楽を付けているのですが、映画の場合は、脚本があり、役者がいて、ストーリーがあるので、音楽というのはそれらにそっと寄り添うようなものだと思います。なので、音楽だけで語り過ぎないよう、フィルムに影を残すようなイメージで音楽を作りました。

 

 

Q. 普段ご自身のアルバム制作を前提に作られる音楽と異なる点、制作する上で苦労されたことなど、あったのではないでしょうか。

苦労というほどの苦労はあまりなかったと思います。強いて言うなら「MANON」はダンスの音楽だったので、ダンサーではない僕からすると、どういったリズムであれば皆さんが踊り易いのか、その判断に少し悩みました。実際、演出家の方に何度か「踊れない」と言われてしまったので・・・(笑)

「最後の命」は人間の内面を描いた作品なので、その映像の温度、それからテンポを自然と意識しました。あとは単純なことですが、映画は台詞があるので、台詞と音楽があまり被らないように音楽を付けています。これも映像を観ながら作曲していて自然とそうなりました。それに加えて、作品から受けるインスピレーションを元に音楽を制作しているので、自分のアルバムのために作る音楽とはあらゆる面で異なっていると思います。
ですが、「MANON」も「最後の命」も、自分だけでは絶対に辿り着けない世界に音楽を昇華させることが出来たので、自分のアルバムと同様、どちらもとても大好きな作品です。

 

 

Q.映画、舞台、小説、アーキテクトetc. 小瀬村様ご自身が好きな分野、関心のある分野を教えてください。また具体的に好きな作品、おすすめの作品がありましたら教えてください。
(複数あげてくださって構いません。映画や舞台のような総合芸術的な場合は、監督、脚本、役者、音楽、ストーリーのどの部分に強く関心を持っているかなど、小瀬村様が鑑賞する上で重きをおいている部分についても教えてください)

デビューから7年、いろいろなお仕事をさせて頂くなかで、映画や小説のように昔から親しんでいた分野だけではなく、例えば舞台などにも興味を持つようになりましたが、やはり自分にとって一番興味のある分野=心惹かれる分野を一つ挙げるとするなら、それは映画です。

物心ついてからの僕が、初めて心から音楽に涙した作品が映画音楽でしたし、映画が好きだった親の影響で、子供の頃から膨大な数の映画を観て育ちました。そしてそれはいまでも変わらず、自宅にはちょっとしたレンタルショップが出来るくらいの数のDVDやBlu-rayがあって、年間130作品くらいは映画を観ています。ですので、おすすめの作品というのは、もちろんあるにはあるのですが、挙げ始めるとキリがありません・・・。鑑賞する上で重きを置いている部分についても、やはり特にこれということはありません。総合芸術といわれるように、映画はなにか一つが秀でていれば良いというわけではないと思うので。様々な要素が相互的に作用して初めて素晴らしい作品が生まれるものと考えています。
ただ、僕は作曲家なのでもちろん音楽に注意して鑑賞することは多々あります。映画音楽というのは、なにせとても自由な分野なので、合ってさえいればどんな音楽であれ正解である以上、最も面白い分野の音楽だと僕は考えています。それに映画に置ける音楽の役割というのは実に様々で、ストーリーを展開させるための音楽もあれば、キャラクターの心情を表すための音楽もあり、単に映像の背景を彩るための音楽もある。シーンによっては音楽をあえて使わないことさえも、逆説的ではありますが音楽の役割といえるだろうし、とても面白い分野です。

 

 

Q.ご自身の作られる音楽について、日ごろ意識していることはありますか?
(一貫したテーマ・表現したい方向性、聴き手にどんな気持ちになってほしいかなど)

テーマは作品毎に異なります。
人間の考え方が日々変わるように、自分が音楽に求めるテーマも日々変わっていきます。
一貫しているものがあるとすれば・・・
自身の作品に関しては、必ず他の誰でもない自分のために作ること。
仕事で音楽を作る場合は、自分で責任を負える範囲の音楽を作ること。
この二つを忘れないようにしていることです。
自分の作品を作る場合、聴き手のことはあまり考えません。結局のところ、自分が作りたいものを作ることでしか、その先にはいけないと思っているので、あくまで自分の作品は自分のために作ることにしています。そうすると、次に向かうべき道がまた見えてくるものなので。
仕事で作曲する場合、要求があって音楽を作るので、自分の作品のように、ただ自分が作りたい音楽を作れば良いというわけではなく、必ず要求をクリアしていかなくてはいけません。
ただ、その要求をクリアしていく過程でも、決して自分がやるべきでないことはやらない、つまり最終的に、自分が責任を負える範囲の音楽を作ること=他人のせいにせずにきちんと自分自身が納得のいく作品に仕上げること。それを常に心がけるようにしています。‘やらされた曲’は出来るだけ世の中に残したくないんです。

 

Q.SNSなどを通じて、主に英語で発信されているご様子から、広く世界中にファンの方が
いらっしゃるようにお見受けします。これまでの海外作品へのご参加について教えてください。
また今後について、海外公演等のビジョン・計画がありましたら、そちらについても教えてください。

デビューアルバムの‘It’s on Everything’、三枚目のアルバムの‘Polaroid Piano’はどちらもオーストラリアの音楽レーベルから発表されたアルバムです。最近では国内盤が出ているので知らない方もいらっしゃるかもしれませんが、どちらも海外作品です。

他にも海外のコンピレーションアルバムや、海外のミュージシャンのアルバムへの参加などは一時期、頻繁に行っていました。
あとはNIKON ASIAやKINFOLK CHINA、RADO SWITZERLANDといった、海外資本の企業とのコラボレーションも積極的に行っています。
2011年に初めての海外公演として中国ツアーを行ったのですが、来年2015年はチェコやロシアなど、ヨーロッパでの公演のオファーがあり、現在検討中です。

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~生まれ育った街・横浜~

Q. 素敵なお話の数々、ありがとうございました。

最後に、横浜について、お伺いいたします。東京ご出身と伺っておりましたが、実際には10代の頃まで、横浜にお住まいだったそうですね。横浜の思い出などありますか?またご自宅や職場の近くなど、通いなれたお店などあったら、ぜひ教えてください。

僕は17歳の頃から世田谷区内に住み続けています。ですが、それまでは横浜市内の、青葉台の近くに住んでいたので、10代の頃は、東京は近くて遠い都会でした。

横浜の思い出はいろいろとあります。普段訪れるということは滅多にないのですが(出不精なので用がないとどこにも行きません・・・)、中学生の頃まではよくワーナーマイカルシネマズで映画を観ていて、海老名の映画館まで出向いて映画を観るのが一番の休日の楽しみでした。

 

高校生の終わりに家族で引っ越しをして、それからもう十年以上、いまの街に住み続けているので、この先もおそらくずっと住み続けるような気がしますが、なので、いまの僕にとって東京・世田谷というのは、帰ってくるとほっとするホームタウンになりました。
自分達の会社がある大岡山駅付近は毎日通っているということもあり、最近段々と愛着が沸いてきています。会社をこの場所に移してからまだ二年足らずですが、良い街なのでしばらくここに通うと思います。Itokitoという美味しいパン屋さんや、さか本という美味しい蕎麦屋さんがあります。メロンパンファクトリーというメロンパン屋さんからはいつも甘い匂いが漂っています。

 

インタビュー会場  横浜グランドインターコンチネンタルホテル 2F マリンブルー

 

インフォメーション

今秋全国公開予定 映画『最後の命』 音楽 (小瀬村晶氏) 

 

オフィシャルサイト  http://saigonoinochi.com/

 

Now On Sale / 虹の彼方 Remixes

https://itunes.apple.com/jp/album/hongno-bi-fang-remixes/id904579410

 

虹の彼方  /  Seven Colors Variations 

https://itunes.apple.com/jp/album/hongno-bi-fang-seven-colors/id733052302

 

Post Author: staff_01